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ルネ・エルス:今も語り継がれる名フレームビルダー

ルネ・エルスの名声は、すぐに周囲に知れ渡った。彼が革新的な自転車を生み出すために労力を惜しまなかったことは事実だ。だが、何よりも彼は、ただ自転車を愛していた。ポリー・デ・シャントルーといった自転車イベントに参加しているとき、彼の表情は、素晴らしいマシンに囲まれて誇りに満ちて輝いていた。

−ポレット・ポルトー ルネ・エルスの初期の顧客

René Herse at Technical Trials, 1938

1930年代、コンクール・マシン

1938年のコンクール・マシンで自転車業界に飛び込んだルネ・エルス。彼はオリジナルのコンポーネントを搭載したナルシスのフレームで走りました。彼のコンポーネントを使った自転車は重量たったの7.94kg。それでいて、泥よけ、ライト、キャリア、ワイドタイヤ、ポンプといった装備の全てを備えていました。

1934〜49年にかけて開催されたコンクール・マシンは、最良の自転車を探求することを目的とした壮大なイベントでした。ルールは明快。軽量化と望ましい特徴に対してポイントが付与され、最も高得点を獲得した自転車が勝利するというものでした。また、走行前のチェックでポイントをカウントした後、自転車は約700kmのラフな山道を走ることでその性能を証明しなければならず、走行中に発生したあらゆる欠陥はペナルティとしてカウントされました。勝利するためには、軽量かつ走行に必要十分な性能を備えている必要があったのです。

1938年、ルネ・エルスは、このコンクール・マシンで2位を獲得しました。この時、唯一既成品を使っていた、ストロングライト製のボトムブラケットの不備で勝利を逃したことが、オリジナルのボトムブラケット開発のきっかけとなったといいます。そのときから、ルネ・エルスはコンクール・マシンで常に1位、あるいは2位の座を守り続けました。参加したフレームビルダーは、アルミ製クランク、ハブ内部やボトムブラケットのカートリッジ・ベアリング、カンティレバー・ブレーキやサイドバッグ用キャリアといった、現代にも通ずる自転車パーツの開拓者となりました。彼らは素晴らしい信頼性を備えたパフォーマンスと、軽量化を兼ね備えた自転車を作り得ることを示したのです。

Poly de Chanteloup

1940年代 伝説のヒルクライム・クリテ“ポリー・デ・シャントルー”

プロのレーサー、ランドヌール、男女混合のタンデム・チームが参加したポリー・デ・シャントルーは、急坂を駆け上るヒルクライムと急坂を下るダウンヒルを含む、刺激的なクリテリウム・レースでした。1940年ごろには、パリ近郊で随いつの挑戦的なヒルクライム・レースに発展。参加者の走りを見に来た観客数は、10万人以上ともいわれています。

ポリー・デ・シャントルーの勝者は、ライダーの運動能力だけでなく、同時にバイクのクオリティをも示しました。ルネ・エルスのバイクは、何度もタンデムの最速記録を更新しました。ポリー・デ・シャントルーの歴史のなかで、彼はランドヌールとタンデムのカテゴリーで、他のどのフレームビルダーよりも多くの勝利を手にしました。

Paris-Brest-Paris 1956

1950年代 100年を越える伝統のブルベ“パリ・ブレスト・パリ”

1891年からスタートした、パリをスタートして約600km離れた西部の町ブレストへ、そしてパリまで戻るという超ロングライドの“パリ・ブレスト・パリ”。 風雨・昼夜に関わらず1200km以上の距離をノンストップで走るこのブルベは、あらゆるサイクリストの想像力を刺激しました。 当初はプロのためのレースでしたが、あまりに過酷で長距離であったため、1950年代以降はプロ・ロードレーサーからは放棄され、ランドヌールの手によってブルベに姿を変えて存続したのです。

当時、タイムリミット内でゴールすることは勿論、前方においては、まさにレースにも似た白熱した走りが繰り広げられたといいます。その先頭グループには常に、チーム・ルネ・エルスのメンバーがいました。パリ・ブレスト・パリを優秀な成績で駆け抜けたライダーの駆る自転車を作ったビルダーに捧げられた「自転車ビルダー賞」。1940年代から70年代にかけて、ルネ・エルスはほとんど毎回、この賞を獲得しました。

1991年に100周年を迎えたパリ・ブレスト・パリは、フランスの自転車文化を語るうえで、避けて通ることのできない伝統の一つといえます。現在も4年に1度開催されており、開催年には世界各国から5千人以上のライダーがパリ・ブレスト・パリを走るために集います。

Lyli Herse, 1960s

1960年代 8度のフレンチ・チャンピオン

1960年代、ルネ・エルスの娘であるリリー・エルスは、フランスで最も強い女性ライダーの一人でした。そんなリリー・エルスは、父親の工房の専属ライダーとして、そのキャリアを終えるまでに8度のフレンチ・チャンピオンに輝きました。今日まで、ピュイ・ド・ドーム・ヒルクライム・レースの記録を含めて、彼女が築いたいくつかのコースレコードは未だ破られていません。

World Championships, 1972

1970年代 世界選手権の制覇とルネ・エルス工房の継承

リリー・エルスはライダーとしてのキャリアを終えた後、チーム・ルネ・エルスの後進の指導にあたりました。なかでも、彼女が指導したライダーであるジュネビエーブ・ガンビヨンは、フランス選手権だけでなく、2度の世界選手権を制覇しています。

晩年、ルネ・エルスはリリーと彼女の夫であるジャン・デュボアに店を譲り、その伝説的な人生を1974年に終えました。ルネ・エルス亡き後、工房一のフレームビルダーだったジャン・デュボアは、リリー・エルスとともにエルスの工房を継承。注意深く、ルネ・エルスの残した技術を時代に沿った形でアップデートしながら、工房を存続させました。

Louison Bobet and Lyli Herse, 1980

1980年代 超軽量バイク

1981年のパリ自転車ショーで、ジャン・デュボアの継いだルネ・エルス工房は、当時、フレームビルダーの間でも扱いの難しいことで有名だったレイノルズ753を使った超軽量バイクを展示しました。当時の雑誌『Le Cycle』では“ラグレスの驚くべき超軽量バイク”と表現されています。それは、ルネ・エルス亡き後も“ルネ・エルス工房”がフランスの自転車業界をリードしているという明確なサインでした。

1986年、デュボアとリリーが健康面の問題に直面したことで、時代をリードしたルネ・エルス工房は閉じられることとなりました。工房の閉鎖が知れ渡ると、馴染みの顧客達は、最後のオーダーをすべく工房に駆け込みました。このときオーダーされた自転車を作るために、工房の閉鎖を2年先延ばさなければならなかったと、後にデュボアは語っています。

Paris-Brest-Paris 2015

2000年代 ルネ・エルスの復活

2000年代始め、コンパス サイクルのファウンダーであるヤン・ハイネはリリー・エルスとジャン・デュボアの友人となりました。以降、彼はルネ・エルスの歴史を研究。デュボアから直接、ルネ・エルスの自転車とコンポーネントの製作にまつわる秘密を学び、二人と親好を深めていきました。

ヤンの訪問中に、リリー・エルスは彼にルネ・エルスの伝統を継承する気はないかと持ちかけました。ルネ・エルスのクランクやその他のコンポーネントを再び蘇らせることを望んだヤンは、コンパス サイクルを創業。ルネ・エルスの名前を得たことは、責任を伴う行為でもあります。ルネ・エルスの意思を継承したパーツづくりを続けるために、ヤンは今もリリー・エルスと協働しています。

Notes:

René Herse®はコンパス サイクルの登録商標です

ルネ・エルスについては、ヤン・ハイネ著『René Herse: The Bikes • The Builder • The Riders.』(英・仏語版のみ)に詳しい

コンクール・マシンについては、『スペシャルメイド自転車—ランドナーの本(https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/bicycle-club-b-426218/)』(2016年/エイ出版社刊)にも寄稿している